卒業生探訪 - 15期 川俣 慶司
「OB会会長が見てきたOWLSの歴史の先にあるもの」
2021年09月20日
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.1 15期 川俣 慶司
OWLSの歴史の先にあるもの
各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”の第1回は現OB会会長の川俣慶司氏(15期)に話を伺った。
今からおよそ60年前、まだ“タッチフットボール部”だった時代のOWLSや西高の雰囲気。OWLSでの経験がその後の人生に及ぼした影響。そして、OB会会長として創部100周年に向けて願うことを紐解いていく。
※ 本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。また、川俣氏は2023年をもってOB会長を引退しております。
万全のチームなら
全国制覇も夢ではなかった
川俣 慶司(かわまた けいし)
1944年生まれ。都立西高15期。2007年より2023年までOB会会長。
西高タッチフットボール部時代はOLとして全国大会3位入賞を果たす。
東京大学アメリカンフットボール部ではRBとして活躍。4年時には副将。
1968年に株式会社藤田組入社。開発事業本部開発企画室長、取締役経営企画室長、株式会社フジタ代表取締役専務を経て、フジタ建物株式会社代表取締役社長、藤田商事株式会社代表取締役社長を歴任。
1992年~2005年まで日本大学大学院理工学部講師を務める。
川俣氏が西高に入学したのは、現在とは世相も違うおよそ60年前。フットボールを始めたきっかけは、意外にも今どきの高校生と変わらなかった。
「出身中学の学芸大付属小金井中学校はガチガチの受験校でした。今振り返ってみても、本格的に運動した記憶はあまりなく、面白くない時を過ごしていました。せっかく西高で青春を楽しむのであれば、体力もつけたいし、喧嘩にも強くなりたいと思いました(笑)。不純なものばかりではありませんでしたが、そういう動機で入部しました。」
当時のOWLSは、創部から10年ちょっとの草創期。まだタッチフットボール部と呼ばれていた。部員は3学年で約30人だったが、11期では1人しか入らず存亡の危機を迎えることもあったそうだ。
「当時の体重は60キロぐらいでしたが、OL(右ガード)をしていました。チームメイトには、主将でQBの藤田君、RBには西尾君、長谷川君、浅野君、といった中学時代に陸上競技で新記録を出すようなメンバーがいました。全国大会では、藤田君が鎖骨を骨折して試合に出られなかったために3位でしたが、もし彼が出場していたらきっと優勝していたと思います。
当時のメンバーは今でも1番付き合いの長い友人達です。」
練習環境や防具も今とは全く違うなかで、時にはアメリカの雑誌を読み漁るなど、毎日が試行錯誤の連続だったという。
1961(昭和36)年の第8回全日本タッチフットボール大会出場時
「フォーメーションはTフォーメーションぐらいしかありませんでした。今みたいに複雑なプレーではなく、ランプレーもパススプレーもシンプルなもので、特に“144”というストレートのランが自慢のプレーでした。他にはオフタックルのラン、オプションのオープンプレー、リバースなどがありました。
防具も今みたいにガッチリしたものではなく、座布団みたいなショルダーパッドでした。中には腰や脚のパッドの代わりに週刊誌を入れている人もいましたよ(笑)。」
そんなOWLSの草創期を支えたのは2人の人物だった。
「1人は “鬼の傳田”と呼ばれた10期の傳田コーチです。現在のような科学的トレーニングではなく、体力づくりを中心としたスパルタ教育でとにかく怖かったです。もう1人は“アンカクさん”と呼ばれた顧問の安藤覚先生です。体育のタッチフットボールの授業では“お前らが俺の代わりに教えてくれ”なんて言われたこともあります。このような方達が現在へと続くOWLSの基礎を作ってくれました。」
“自主自律”と“バンカラ”の狭間で
川俣氏が西高に在学した1960年代は学生運動の全盛期。西高では、“個人の意思”を尊重し、学生運動への参加が認められていたという。今に続く“自主自律”の校風はこの当時から健在だった。
「東大には毎年200名近くの学生が合格していましたが、それでも“受験校”といった感じではありませんでした。校内に成績が貼り出されたり、当時の通信簿に順位が書かれたりといったことはありましたが、それよりも、自分が行きたい大学を受験することがあたりまえの空気でしたね。
私は3年生の時には全国大会に出場したので、引退した時点で年が明けていました。そこから1ヵ月はほぼ徹夜状態で勉強しました。体を一生懸命鍛えていたので踏ん張ることができましたが、結果として一浪することになりました(笑)。」
全国大会3位に輝いた15期には、今では考えられない破天荒なエピソードもある。
「新聞部に“タッチフットボール部は学校数も少ないのだから、全国3位だと威張っても大したことではない”と書かれました。激怒した我々は、新聞部の部室に乗り込んで猛烈に抗議しました。何をしたかはここでは言えないですが(笑)、それでも大きな問題にはなりませんでした。
あと、伝説となった“ミス西高事件”では、他の部の仲間と夜の校舎に忍び込んで、色々なことを仕掛けたこともありました。こちらはさすがに大問題になり、校長から“卒業させない”と言われたのですが、卒業式の1週間ぐらい前になんとか許してもらえました(笑)。今では考えられませんが、そんなおおらかな空気が当時の西高には流れていましたね。」
逆境を乗り越え、
最後までやり遂げたアメフトと会社再建
西高卒業後は、1年間の浪人生活を経て東京大学法学部に進学し、アメリカンフットボール部に入部。ポジションはRB。2年時には鼻を骨折する大けがをしたものの、4年生では副将を務めたという。
「法律は“世間の常識”の基になるものなので、バランス感覚を養うために法学部を選びました。東大の他にはなぜか早稲田大学の建築学科を受けました。
アメフト部では2年の時に鼻を骨折して入院するほどの大怪我をしました。親からは“もうアメフトをやめてくれ”と言われましたが、それでも続けました。やっぱり楽しかったですからね。そのおかげで東大でも一期上の小宮山さん(元東大総長)をはじめ多くの仲間と出会うことができました。」
大学卒業後は、父から言われた“大企業へ行くな。自分の力を発揮できる会社を選べ”という言葉を胸に、株式会社藤田組に入社。
「(父の言葉もあったので)初めから官僚とか弁護士といった職に就く気はさらさらありませんでした(笑)。
当時は高度経済成長期で、GDPの中で占める建設投資も増えつつありました。これからはきっとゼネコンが日本経済の中心になるだろうと思い、藤田組に入社しました。」
入社後は、デベロッパーとして多くの都市開発事業に従事。「コンペに強いフジタ」の屋台骨を支えてきた。一方で、オイルショックによる土地価格の下落、バブル崩壊による会社存続の危機といった幾多の荒波に揉まれながらも、常に最前線で奮闘。1200億円の債権放棄を銀行団と交渉し、会社再建の道筋を付けた後は潔く経営責任を取り、会社を去った。
「不良債権問題(※)については、最後までやり遂げようと決意しました。最後は旧経営者で責任を取る者が誰もいなかったので、私がけじめをつけました。自分としてはもうやり切ったと思います。この辺の話は長くなるから今日はここまでで(笑)。」
※ ここでは書ききれなかった川俣会長のご活躍をさらに知りたい方は、 「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」第3巻『日本経済の記録-時代証言集-』(オーラル・ヒストリー) をぜひお読みください。
西高とフットボールが
今の私を作ってくれた
ここまで川俣氏の高校時代から現在に至るまでの半生を伺った。
ここでは書ききれない多くのエピソードもあったが、どの話にも根底には“フットボールを通して得た経験”や“西高愛”が感じられた。
「私の人格を形成してくれたのは、フットボールだと思っています。
社会に出てからは、リーダーとなることが多かったですが、その中で実際に行動しなければならない時や、大きな決断を下さなければならない時に、フットボールで培った体力や精神力が大いに活きました。」
「西高では自由な雰囲気の中で色々なことができる、それが何よりも素晴らしく、後々の人生にも非常に役に立つことだと思います。
大人の入口に立つ高校生の時に、どのような雰囲気で学んだかということは、人格形成の上で大きく影響します。その点では、西高の校風は最高だと思います。今でもOWLSの保護者会でいろいろ話を聞くと、西高の伝統が維持されていることをしっかりと感じます。」
創部100年に向けて、
多くの人と活動を盛り上げたい
2007年(創部60周年)からOWLSのOB会会長も務められている川俣氏に、
これまでの活動やOWLSの未来に寄せる期待を伺った。
「もともとしっかりとしたOB会組織はありませんでした。
先ほどの話にも出てきた傳田さんが手弁当でなさっていましたが、創部60周年の時に“組織化した方が良いのでは”という声があがり、私にお鉢が回ってきたわけです。その時は、先ほど申し上げた会社の問題もありそれどころではありませんでしたが、前後の代の仲間からも“お前がやってくれ”と言われたこともあり、各世代で幹事を決めて組織化に着手しました(※)。
今では多くの方にご協力をいただいていますが、私が見るところでは、試合の観戦にしても、このOB会活動にしても、当時活躍した方は関心が非常に高いように感じます。しかしそんなことは関係なく、各世代の卒業生同士の交流や親睦を深めるものであることが一番望ましいと思っています。
OB会活動が今以上に盛り上がることで、もっともっと現役世代を支援することもできると考えています。
私ももう喜寿。人生そろそろ退かなくちゃならない年齢です(笑)。OWLSの伝統がこの先の100年に向けて継続して欲しいと思っているからこそ、若い世代に継承していきたいと思いますし、いろんな世代の方が集まるような活動になってほしいと切に願っています。」
※ 創部60周年を機に、傳田氏が会長を務めていた“雄美会”から現在の“OB会”に組織変更。
人生で大切にしている信念
~Pride of Kawamata編~
ここでは、話を伺った方が人生で大切にされている“信念”を探る。
今回は川俣氏の座右の銘をコメントと共に紹介する。
“疾風に勁草を知る”
書:川俣 慶司
- 【読み】
- しっぷうにけいそうをしる
- 【意味】
- 困難や試練に直面したときに、はじめてその人の意思の強さや節操の堅固さ、人間としての値打ちがわかることのたとえ。
- 【由来】
- 「疾風」とは、速く激しく吹く風。「勁草」とは、風雪に耐える強い草。
強い風が吹いたときに初めて、それに負けない強い草を見分けることができることから。
『後漢書・王覇伝』に「子独り留まりて努力す、疾風に勁草を知る」とあるのに基づく。
後漢の光武帝が初めて義兵を挙げたとき、旗色が悪くなってくると帝に従っていた者たちは逃亡していき、最後まで残ったのは王覇だけであった。そのときに帝が王覇に言ったことば。 - 【出典】
- 故事ことわざ辞典
- 【川俣氏コメント】
- これは、私が会社経営に苦労するようになってからよく使うようになった言葉です。人間、逆風にさらされた時にこそ、本当の“実力”が試されます。そこから逃げるか、正面から向きあうか、が問われるわけです。まさに、私がフットボールで培ったものが凝縮されている気がします。