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卒業生探訪 - 13期 小野 恵稔
「初代監督が語る、“あの”出会い」

2021年12月29日 OWLS卒業生探訪

初代監督が語る、“あの”出会い

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”の第2回は初代監督の小野恵稔氏(13期)に話を伺った。
平成元年に東京都大会優勝を成し遂げた監督が大切にしていた“出会い”を紐解いていく。

※ 本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。

“俺の方が投げられる”と思った入試前日

小野氏写真
小野 恵稔(おの しげとし)
1942年、東京浅草生まれ。1945年3月、東京大空襲に遭うも奇跡的に家族全員無事。1958年、都立西高校入学。1962年慶応義塾大学入学。一時ユニコーンズに所属したのち、西高タッチフットボール部コーチ。1967年、日本IBM入社。1985年、ソフトロ二クス創業(~99年11月)。同年、OWLS監督就任(~97年11月)。その後、数社の顧問などを経て現在に至る。家族は妻と子(1男2女)、孫7人。

小野氏が西高に入学したのは1958年(昭和33年)。当時は“アメフト”はおろか“タッチフットボール”の認知度は皆無といってよかった。そのような時代に、ひとつの“出会い”があった。

「中学校の理科の先生がたまたま西高出身で、“タッチフットボールをしていた。”とよく話されていました。それまでの人生で、ラグビーは見たことありましたが、タッチフットボールは初めて聞くスポーツでした。興味を持った私は、その先生に(ゴムボールでしたが)投げ方などを教えてもらいました。

「入試前日に西高に下見に行ったところ、タッチフットボール部が練習をやっていました。その様子を見て“俺のボールの方が飛ぶな”と思ったこともありました。冗談ですが(笑)。」

晴れて西高生となった小野氏は、迷うことなくタッチフットボール部に入部。
当時のチームは、3年生が1人、2年生が9人、1年生が10人の合計20人だったが、実際に活動していたのはその半分程度だったという。

「1年の時のポジションはガードでした。タッチフットボールは、アメフトとは違い防具も少なく、コブだらけになっていました。2年生になった時、改めてポジションを決めることになったのですが、3年生のQB坂本さんが“お前、細くてラインは向いていない。足も遅くてバックスも本当はダメだけど、QBならなんとかやっていけるかもしれない”と言うことでQBをやることになりました。当時は“クォーターバッキング”なんて言葉も理論もなかったわけで、“QBはボールを持って渡して投げればいいんだよ。”といった具合でした(笑)」

“初めて本音をぶつけ合った”合宿最終日

小野氏が2年生の時に、チーム史上初となる合宿が行われた。当時は柔道場が宿舎だったが、“西高に寝泊まりする”伝統は今も受け継がれている。そんな合宿最終日、ひとりのOBが現れたことで、チームは激論を巻き起こすことになった。

高校時プレー写真
当時の試合風景

「終了前日の夜、4期の山村先輩が来られてミーティングが開かれました。
その時に“楽しめれば良い”派(多勢)と“勝たなければ意味がない”派(小野氏など少数)とで、深夜まで及ぶ激論となりました。既に午前1時を回っていましたが、最後にキャプテンの村上さんから“明日より先輩の指導をいただいてしっかり練習する”と宣言があり、山村先輩も納得して終了となりました。」

「初めて本音をぶつけ合ったことがその後の西高の進撃につながりました。今でもあのミーティングが一大転換点になったと思っています。」

この合宿が転機となり、バラバラだったチームはひとつにまとまった。
その年の秋には、不戦勝を含めて3勝を挙げることができた。

「7校(※)でやって、予定通りというか、戸山と聖学院にはコテンパンに負けました。ただ、慶應とは0-19と接戦でした。後に私は慶應大学に進学し、当時の対戦相手と話す機会があったのですが、彼らは50点くらい取って勝つつもりだったらしく、”点が取れなくて不思議だった”と言われました(笑)。」

※ 当時は「関東連盟」として、西、戸山、聖学院、日大一高、正則、慶應、早大学院の合計7校がリーグ戦を行っていた。

アメフト仕込みの戦略で
“トップセールスマン”へ

西高卒業後は“アメリカンフットボールをしたい”という思いから慶應義塾大学へ進学。念願のユニコーンズに入部したものの、肩を負傷し3ヶ月で退部。わずかな期間だったものの、学ぶことは多かったという。

「わずか3ヶ月ほどしかいませんでしたが、おかげで身についたこともありました。特に“戦術”、“長期的なプラン”、“チームマネジメント”を学ぶことができました。この時に学んだことは、後々西高で監督になった時に活かされたように感じます。」

大学卒業後は日本IBMに就職。営業職に配属され、アジア太平洋地域の新人賞を獲得。ひとつの部署ではなく、ひとつの企業を顧客としてとらえ、セールスしていくための戦略は、まさにアメフトで培ったことだった。

「私は、まず他社製品が入っている企業へ行って、“IBMの製品に変えてください”と言いました。実際はそこですぐに受注するわけではありませんでしたが、”とにかくツテを辿ってトップに会いに行く”トップアプローチを行いました。忙しいトップへセールスするために、短い時間で説明できるように自分なりに工夫しました。そのうち大手の企業が認めてくださって、15年間勤務していたうち、11年は目標を達成しました。」

「自分としてはとにかく夢中になってセールスしました。そうすると成績がついてくる。練習を一生懸命やれば、ちゃんと良い結果がついてくる。アメフトを経験したからこその結果だったと思います。」

また、小野氏は“IBM BIG BLUE”の創部メンバーとして、今に続くチームの基礎を築き上げた。

「当時は“Thinkers”といいましたが、私はその創部メンバーでした。当時は大阪勤務だったので、金曜日の最終便で東京に来て、土曜日は練習、日曜日に帰るといった生活を繰り返していました。今となってはBIG BLUEが強くなってくれることを願っていますが、オービックや富士通に必ず負けてしまいますね(笑)。」

都大会優勝を支えた“救いの神”

ソフトロニクスでの写真
ソフトロニクス時代の小野氏

その後、小野氏は日本IBMから独立し“ソフトロニクス”というソフトウェア会社を創業。一方で、OBコーチ達が思い思いに指導していたOWLSをまとめるべく、初代監督に就任。
“責任をとれる大人”として、指導体制の組織化やゲームドクター制の導入に尽力。
1989年(平成元年)秋季東京都大会にて、チームを優勝に導いた。

「それまでのOWLSではOBのコーチがよく来てくれていましたが、“監督”というポジションはありませんでした。私が監督就任を頼まれた時は、事業を始めるタイミングと重なったため、はじめは辞退しておりました。しかし、顧問の入澤先生に相当なご負担をおかけしていたことも現状でした。そのため、1年ほど考えましたが、会社経営も自身の生活も見通しが立ったタイミングでお引き受けすることにしました。」

「監督就任後、“怪我をさせないように”ということは常に気をつけていました。怪我をしたら本人が一番こたえますし、親も心配します。学校にもとても迷惑がかかります。そこで14期OBの黒澤先生(※前チームドクター)に来てもらって、保護者会で話をしてもらいました。他にも卒業生の医師には色々と協力してもらいました。これが程なくして入澤先生のご尽力により“ゲームドクター制度”に繋がってくるわけです。」

監督時都大会優勝写真
都大会優勝の集合写真。

「一方で、これだけはやってはいけないと思ったことは、“俺について来い”とトップダウンで指示をしてしまうことです。“俺の言った通りやれ”というのは、特に西高では絶対ダメです。選手ひとりひとりが自分で考えて、実践して、失敗して、反省をして、また取り組んでいく、その繰り返しですよね。簡単ではありませんが、これがとても大事なことですし、西高生であればそれができると思っています。」

“本業と監督業の両立”を掲げていた小野氏であったが、その陰には“救いの神”ともいえる”ある卒業生”の姿があった。

「事業の立ち上げ当初は多くの作業が発生し、それなりに多忙でした。それでもできるだけ明るいうちにグランドへ行こうとして、仕事を後回しにすることが多く、支障を来たしていたこともしばしばありました。」

「しかし、そこへ救いの神が現れたのです。入澤先生に、西高卒業生の方をご紹介いただき、会社の業務を手伝っていただきました。ものの数か月で総務全般と派遣に出している社員の管理を完璧にこなし、私のコンサルティング業務もサポートしてくれました。その能力の高さと責任感の強さは、“さすが西高出身者だなあ”と思ったものです。その方のお陰で監督業も格好がつくようになりました。本当に、感謝してもしきれません。」

“賢者”としての闘いを

様々な”出会い”に支えられてきた小野氏に、これからのOWLSに期待することを伺った。

「OWLSにはあらゆる分野で活躍する卒業生が沢山います。そのような人々を育てたOWLSの理念・伝統があり、消えることのない時間があります。OWLSに関わる人やその卒業生には、人間として、誠実に、誰からも信用されるようになってほしいですし、また自信を持ってほしいです。そして、またどこかで新たな”出会い”が生まれることを願います。」

小野氏写真

「アメリカンフットボールはスポーツの極致だと思います。走って、当たる、蹴って、投げて、受けて、耐えて…痛いけれど、それを集中して続ける肉体的、精神的な強さが必要です。それだけではなく、タイムマネジメントや戦術を覚えること、シーズンをどう戦うか、対戦校対策をどこまで考えるか、といった戦略面を考える知力も必要になります。一人一人の知力が高いことも非常にアメフトにとって大事な要素です。運動能力は練習を基礎からある程度やれば身につけられますが、知力が高いことを一人一人が自覚して生かすことが出来れば、より高い水準で戦えると思います。“森の賢者”といわれる“OWLS”には、賢者としての闘いを大いに期待します。」

人生で大切にしている信念
~Pride of Ono編~

“自分が知っていることはわずかである”

【出典】
小野恵稔
【小野氏コメント】
ほとんど知らないと知って、謙虚になること。努力はついつい怠ってしまう。 1000年~2000年前の人の言葉を使ったとしても文句は言われないと思うが、悔しいから自分の言葉として、20年~30年前くらい(会社を創業したあたり)から使っている。

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