Facebook Twitter Instagram

卒業生探訪 - 45期 日置 貴之
「常に正しいと思える“選択”を」

2022年03月30日 OWLS卒業生探訪

連載企画
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.3 45期 日置 貴之
常に正しいと思える“選択オプション))”を

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”の第3回は、スポーツブランディングジャパン株式会社代表として様々なスポーツ事業に活躍する日置貴之氏(45期)に話を伺った。
様々な選択の末に現在の地位を築かれた日置氏の原点を紐解いていく。

※ 本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。

スポーツ推薦を断念させた“都立の星”

日置氏写真
日置 貴之(ひおき たかゆき)
1974年生まれ。大学を卒業後、株式会社博報堂に入社、その後FIFA Marketing AGに転職し2002FIFA WORLD CUPKOREA/JAPANのマーケティング業務を行う。数多くのプロスポーツチームやリーグ、連盟などの事業アドバイザーをつとめ、自身もプロラグビーチームやアイスホッケーチームの経営に直接携わる。他にもNFL、UFC、ワシントンウィザーズなど海外のプロスポーツ団体の日本における事業パートナーとして活動。東京オリンピックパラリンピックでは、開会式や閉会式を担当するチームセレモニーオフィサー代行兼エグゼクティブプロデューサーをつとめた。スポーツエコシステム推進協議会アドバイザーボードメンバー。

日置氏が中学生のころは、ジョー・モンタナがスーパーボウルで活躍するなど、日本でもアメフト熱が高まっている時代だった。
しかし、日置少年は「アメフトってかっこいいなぁ」と思いつつも、別競技でスポーツ推薦を獲得しており、どこか他人事として感じていた。そんな彼をアメフトへ引き込んだのは、ある朝のNHKニュースだった。

「中学時代はバスケットボールをやっていました。杉並・練馬・中野区での優勝や、関東大会でも上位の戦績を残すような強豪校でした。そのため、私自身は既に別の高校にバスケットボールで推薦をもらっており、進学を決めていました。
しかし、ある日の朝、NHKのニュースで西高アメフト部が東京都大会で優勝(※42期)したニュースを見て“近所にある西高がこんなに注目されているのか“と驚いたことを覚えています。ちょうどその頃は、NFLでもジョー・モンタナがスーパーボウルで活躍していたこともあり、急遽、西高を受検することに決めました。11月頃の進路変更だったため、色々なところに迷惑をかけましたね…(苦笑)」

「当時の西高のイメージは“近所にある進学校だけど、到底行けるところではないな”というものでした。
ただ、当時の私は“スポーツ万能な生徒会長”といった優等生(笑)で、オール5に近い成績だったため、なんとか西高に合格することができました。」

西高合格後は、迷うことなくOWLSへの入部を選択。ここから日置氏のアメフト漬けの毎日が始まっていく。

「入部当初は同期だけで30人以上もいました。最後まで残ったのは半分くらいでしたが、100kgを超えるメンバーが複数人いましたので、177cm/86kgの私でも3年間RBでした。今だったら間違いなくラインでしょうね(笑)。
当時は“ランプレイ主体のトリプルオプションのチーム”だったので、バックスにも80kg近い選手を配置していました。」

高校時プレー写真
当時の試合風景。右の背番号46が日置氏。

「3年生のシーズンは、シード権もなく、初戦で駒場学園や日大鶴ヶ丘のような強豪校と対戦しましたが、毎試合接戦を制し、春も秋も関東大会に出場できました。結局、春は順々決勝、秋の関東大会では一回戦負けでしたが、試合ごとに強くなるいいチームだったと思っています。」

「学生コーチ主体であるのは今と同じでしょうね。練習メニューも自分たちで考えて作りましたし、それだけでなく放課後の筋トレやミーティングにも本格的に取り組み始めた代でした。朝練をして、放課後も練習をして、そのままジムに行って、先輩の家でミーティング。家に帰るのは22時過ぎというアメフト漬けの毎日でした。当時は学区制でみんな家が近かったからこそ、できたことかもしれないですね(笑)。」

中学時代は“スポーツ万能な生徒会長”だった日置氏も、西高の自由な校風によって、バンカラな生徒へと変貌していった。

「部室でゲームをしたり漫画を読んだり、建て替えたばかりの西高会館を部員みんなで占拠してお昼ご飯を食べたり…。
あの時は謎の“無敵感”がありましたね…(笑)本当に感じの悪い無茶苦茶な学生だったと反省しています。
それでもなんとか卒業できたのは、当時顧問だった入澤先生のおかげです。定年退職される最後の年だったのに、本当にご迷惑をおかけしました(苦笑)。」

「授業も各先生の個性が出ていましたし、学校生活も“自由”でした。そういう意味で、西高の雰囲気は大学にとても近いと感じました。」

※当時の証言を基にした記載であり、現在の西高の姿を示すものではございません。

追究し続けた“スポーツの存在意義”

西高卒業後は“ジャーナリストになりたい”との志から、上智大学文学部新聞学科へ進学。在学中、ニューヨークへジャーナリズムの研究のために留学したものの、“日本にジャーナリズムはない”との逆説的な気付きを得て帰国。ニューヨークで見た映画“ザ・エージェント”に感化され、スポーツビジネスを志した結果、当時Jリーグの運営を行っていた広告会社の博報堂へ入社。
その後、 FIFAを経て“スポーツマーケティングジャパン(現スポーツブランディングジャパン)”を創業し独立。様々なスポーツチームのブランディングやチームやリーグの経営に携わってきた。これらの知見を活用し、経済産業省や文部化科学省の委員を歴任するなど、活躍の場は多岐にわたっている。

「博報堂を4年くらいで退職し、国際サッカー連盟(FIFA)に転職しました。スイスに異動し、本格的にスポーツのマーケティングの仕事へ携わるようになりました。その後、その時の上司と一緒に“スポーツマーケティングジャパン”という会社を創業し、20年ほどスポーツのビジネスに携わっています。
日本のスポーツの世界は、競技を強くするという人材は競技者OBなどで割と潤沢なのですが、事業サイドを見られるビジネスパーソンが圧倒的に不足しています。より多くの人に見てもらう、事業として売り上げを拡大する、社会になくてはならない存在にする、などやることはいっぱいあります。私たちは“外からの立場”としてチーム経営、チケット販売、ファンとのエンゲージメント形成、配信事業などをサポートしています。私の会社の業種は、日本にはなかなかないため、おかげさまで、様々なスポーツ関係のお仕事をさせていただいています。」

「2004年以来、日本ハムファイターズのロゴマークやユニフォームのデザインをはじめとしたファンエンゲージメント施策、また、“日光アイスバックス”というプロアイスホッケーチームの代表として経営に携わっています。
他にもJリーグクラブ、ラグビーのプロチーム、日本卓球協会、ラグビー協会、アイスホッケー協会、全日本柔道連盟、といった方々の事業アドバイザーも行っています。」

スーパーボウル会場での写真
NFLの頂上決戦、スーパーボウルの会場にて

「2014年からNFLジャパンとして、日本事務所の業務を行っています。放映権の販売や公式サイト(NFL JAPAN.com)の制作、運営は10年近くにわたり担当しています。また、Xリーグや関東大学リーグともお仕事をさせていただき、配信事業やスタジアムの集客などもお手伝いさせていただいています。」

このように、アメフトのみならず、様々なスポーツとの関わりを深めている日置氏であるが、そのキャリアを語る上で切っても切れないのが、オリンピックとの縁である。

「2015年にIOCと組織委員会に呼ばれ、東京オリンピックに向けてのプロデューサーを拝命しました。
西高の先輩で、FIFA時代からお世話になり、組織委員会で局長を勤められていた方からのご紹介を受け、組織委員会でセレモニー室という開会式や閉会式を取り仕切る部署の責任者となりました。最初の大きなプロジェクトは、リオオリンピックの閉会式で安倍首相(当時)が登場した“安倍マリオ”の仕事でチーフプロデューサーとしてIOCとの調整や企画の実現に向け様々な調整作業に携わりました。」

東京2020パラリンピック開会式での写真
東京2020パラリンピック開会式にて出演者と

「その後東京オリンピック、パラリンピックの“エグゼクティブロデューサー“として、開会式と閉会式の実質的な責任者を務めました。この仕事は今まででダントツ難易度の高い仕事でした。普通の状態でも大変なのに、コロナ禍であり、かつ様々なスキャンダルもあって、まともに組織を機能させることが本当に困難でした。社会が感情的で繊細で、開催自体も危ぶまれる状況でしたが、式にかかわっている延べ1万人以上のスタッフや出演者、ボランティアが報われなくては、という一心でした。最後は6kgくらい痩せましたが(笑)。」

“オリンピックとは何か”ということに対して常に真摯に悩み続けた末、日置氏はスポーツの存在意義への確信を持つに至った。そして、その原点がOWLSで過ごした“真剣に頭を使ったスポーツ漬けの日々の経験”にあったと気づく。

「スポーツは、観る者の“感情の起伏”を促すことに大きく寄与していると思います。
現在のコロナ禍のように閉塞した時代には、“感情を揺さぶる機能”として、“人間が人間らしく生きる”ためにもスポーツは絶対不可欠だと感じています。そのためにも、“スポーツを止めてはならない”と思いました。そして、私にとっては、やはりOWLSでの経験が、スポーツについて考える原点となったことは間違いないです。」

心のアルバムに焼き付く光景

おわりに、日置氏がOWLSで得た財産と、後輩たちに期待することを伺った。

「先ほども申しましたが、自分の中では、OWLSでの経験が、自身の人格形成やその後の人生に大きな影響を与えてくれました。
それだけでなく、当時出会った仲間は今でも“高校生の時のメンタリティ”で話せる貴重な存在です。」

「高校時代は考える時間が沢山あっただけでなく、自分達で試行錯誤しながら練習やプレーをしていたので、今でいうところの“PDCA”を回す訓練をずっとしていたのだと思います。
また、西高が強豪私立校に立ち向かう時に必ず直面する“足りない駒でどう戦うか”という経験も現在に活きています。
あとは、良くも悪くも “ど真ん中でないポジションの方が、居心地が良い“”長いものには巻かれず、思ったことを自分の責任でやる“という、ちょっと生意気な性格も西高時代に培われました(笑)。これは西高卒業生なら少なからず共感してくれる人がいると思いますね(笑)。」

「今の話はちょっとふざけましたけど、西高時代のことは、40代を超えた今となっても強烈に思い出せる映像が多くあります。
高校以前のことは、写真を見て思い出すことが多いのですが、西高の思い出は強烈に脳裏に焼き付いている場面がいくつもあります。
例えば、引退試合の最後のプレー。僕のダイブだったのですが、エクスチェンジミスでボールが渡されず、私だけがエンドラインに入ってゲームオーバー。責任を感じて号泣するセンターの後輩とQB。当時の切ない気持ちは一生忘れないでしょうね。
他にも、最後の秋大会シーズンの練習後に“このストレッチが最後になるのかな~”と思いながら、グラウンドの真ん中に寝転がって見た空など。人それぞれ“忘れられない光景”があると思います。大学で一生懸命最後まで頑張った人はまた別にあると思いますが、私の場合は、OWLSでの思い出がその後の人生で強いアイデンティティに直結していると感じています。」

「まさに今、私の息子は高校生でアメリカンフットボールをしています。自分がビビットに記憶がある時代を、息子が過ごしているということが、面白いなと感じています。
“今、彼は何を感じているのだろうか”といったことには、とても興味がありますね。私立の学校で関東大会の常連校なので西高と関東大会で対戦したらどっちを応援するのだろう、と考えてしまいます。

今の現役生やこれから入部してくる後輩たちには、期待するとともに、私が過ごした以上に“記憶に残る”3年間を過ごしてもらいたいです。」

人生で大切にしている信念
~Pride of Hioki編~

“自分の取った選択は常にただしい”

【出典】
日置貴之
【日置氏コメント】
“選択は全て自分でする”ということをOWLSでは経験しました。 それによって、“選択に対して自分で責任を負う。決して人のせいにはしない。”という自分自身の習性が形成されました。 OWLSの現役生や、これから入部する後輩にも、ぜひ、自分が後悔しないための“正しい”選択をし続けて欲しいと思います。

トピックス記事一覧へ