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卒業生探訪 - 36期 大橋 誠
「“どす黒い衝動”の先にある自発性」

2022年06月17日 OWLS卒業生探訪

連載企画
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.4 36期 大橋 誠
“どす黒い衝動”の先にある自発性

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”の第4回は、オービックシーガルズを史上初の日本選手権4連覇に導いた名将、大橋誠氏(36期)に話を伺った。
今までのインタビューでは語られてこなかったOWLSでの体験こそが、大橋氏の原点であることを紐解いていく。

※ 本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。

まともなフットボールは
試合くらいだった高校時代

大橋氏写真
大橋 誠(おおはし まこと)
1965年6月9日生。都立西高でフットボールを始め主将を務める。その後早稲田大学進学後もアメフトを続け4年時に副将。 1989年リクルート入社、主に一部上場企業をクライアントとした求人広告営業として8年間勤務。 1996年より当時の実業団フットボールチーム「リクルートシーガルズ(現オービックシーガルズ)」をクラブチームに転換するプロジェクトへ希望を出して異動、総務部付として6年間を過ごす。2002年より進学情報誌の配本インフラ整備・管理の責任者としてビジネスフィールドに復帰、BPR (Business Process Reengineering) を実施。2006年3月をもってリクルートを退社し、プロのフットボールコーチとなり、現在に至る。2010年・2011年・2012年・2013年シーズンで、史上初の日本選手権4連覇を達成。

大橋氏が中学生のころは、ヤンキーにあこがれが集まる時代だった。自身もヤンキーのように振る舞っていた大橋氏が西高受検を決意したのは、
進路面談で教師に言われたある一言がきっかけであった。

「通っていた中学校は、生徒の半分近くがヤンキーみたいな学校で、僕もその中の一人でした。僕は家庭の事情で“都立高校にしか行かせられない”と言われていたのですが、進路相談の時に“今の大橋ならこのくらいの学校だろう”って適当に進路を決められたことにカチンと来て、当時の学区で一番難しかった西高を受けてやろうと思いました。もちろん、こんな生徒でしたから内申点もギリギリだったのですが、なぜか受かってしまいました。(笑)」

西高入学当初は“浮いていた”という大橋氏は、西高にアメフト部があったことも知らず、そもそも部活に入ろうという気もなかったというが、
同じく異質な姿をしたアメフト部員に声を掛けられたことで、今に続く運命が切り開かれた。しかし、その道は決して平坦ではなかった。

「いざ入学してみると、勉強ができそうな人が多く、僕はとても浮いていました。そんな僕に声を掛けてくれたのがアメフト部の先輩でした。勧誘の時にフルスタイルで歩いている姿は他の部にはない異様さでしたが、かっこよく見えました。きっと先輩たちも僕みたいに異質な新入生を見付けては声を掛けていたのでしょう(笑)。でも、それがとても嬉しく入部を決めました。」

「身長は170cmちょっとで体重は60kgでした。練習はスキームやシステムのようなことはせずに、ショートダッシュ、ダミーチャージ、1on1、100ヤードダッシュを毎日のようにやっていました。これがフットボールかって言う疑問すら抱かずにやっていました。ウエイトトレーニングなどの科学的な考え方もなかったですし、身体を大きくしようという概念もありませんでした。腕立て伏せや人を背負ってスクワットするといったことはありましたが、あれも筋トレというよりは、気持ちを作るためでしかなかったですね。今思えば無知の強さというか怖さというか、、、(苦笑)。」

「自分たちの代はとにかく人が少なく、ベスト8が関の山でした。一番少ない時はチームで12人しかおらず、まともにフットボールができる機会は試合くらいしかありませんでした。それこそ、“怪我人が2人出たら試合終了”というギリギリの状況でした。試合では基本ポジションのLBだけでなく、OLもやりましたし、キッキングにも出ました。フィールドの外に出られるのはハーフタイムだけでした。」

「それでも続けてこられたのは、仲間がいたということと、その輪からから外れたくないというやせ我慢の気持ちが自分を突き動かしていたからでしょうね。だからこそ試合では、これで勝てないとしたら今までの練習はなんだったのかと思いましたし、なんとかして勝ちたいと思っていました。」

OWLS36期
OWLS36期の集合写真。背番号65が大橋氏。

ここまでの話であれば“名将大橋の美談”で終わるかもしれない。しかし、本稿ではさらに当時の様子を深掘りし、大橋氏の“どす黒い感情”まで踏み込んで話を伺った。

「何十年も前の話ですけど、当時も“これが現代の日本なのか”って思ってやっていましたね。夏休みの練習の前は本当にみんな暗かったですよ。できるだけエネルギー使いたくないから、みんな言葉数も少なく完全に省エネモードでした。オフでもみんなで体を動かす遊びは絶対しないんですよ。ボウリングですら体力を消耗するのではないかと恐れていました。体力は消耗品だって。そんな学生、普通はいないですよね(笑)。」

「先ほどもお話ししましたが、僕らの練習は、ショートダッシュ、ダミーチャージ、1on1、100ヤードダッシュ、これだけですよ。
それを毎日のように夏中やるみたいな。それがただただ辛い。
ショートダッシュで10ヤード走って、20ヤード走って、30ヤード走るみたいな練習が、1時間くらいあるんですよ。
各列数人で走るのですが、走り切りが緩いとチェックと言われてやり直しになりました。」

「2年時の夏合宿の時の話です。100ヤードを走り終わって振り返ったら、体育館とプールの間の小道にOBとコーチがわーっと走り込んでいくのが見えて。
どうも同期が走っている途中、直角にまがって体育館とプールの間の細い通路に逃げ込んだんだようでして…。
僕は当時キャプテンだったので、コーチが“〇〇がもう1本たりとも走りたくないと言って狭い体育館とプールの間に逃げ込んで出てこようとしない、どうする?”と聞いてきました。どうすると言われてもですよね…(苦笑)。結局コーチとなだめて通路からは出てきましたが、二度と練習には戻ってきませんでした。」

「このような感じで常に追い込まれていましたので、自分の組が走り終わっても次の組が延々と走っては戻され、走っては戻され、と繰り返しているの待っていると、鼓舞はするものの、心のどこかで“俺たちは休めてラッキー”、他の組がすんなり走り終わると“なんだよ!”って思っていました(笑)。このようにものすごくどす黒い感情が渦巻く状態でした。それを、卒業後に吐露したら、みんながお互いに同じことを考えていたと言っていました(笑)。」

「その後、大学や社会人でもチームメイトはできているし、今のシーガルズのプレイヤーもある意味チームメイトなので人間関係の輪はずっと広まっていますけど、西高の時のあの感じっていうのは異常ですよね。それは高校生という特に感受性の強い時に経験したからっていうのもあると思いますし、世間がスポーツに対して思う”綺麗な絆”とも違う特殊な関係性を作れたっていうのはありますね。」

「もうひとつ、僕にとって人生の恩師である入澤先生との出会いはとても大きいものでした。何か色々とお世話をしていただいたというよりは、きちんと叱っていただきました。本当か嘘かわかりませんが、先生の教師人生で、”後にも先にも生徒を殴ったのは大橋だけだ”と言われました(苦笑)。入澤先生にお会いしていなかったら、きっと今こうして皆さんにお話しできるような人生を歩んでいなかったと思います。」

このような体験、出会いが今につながる“名将大橋”を作り上げた原点であることは間違いないだろう。

アメフトのための大学進学、
そして日本一の名将へ

西高卒業後は1年間の浪人生活を送ることに。勉強に身が入らず一時期は大学へ進学しないことも考えていたという。そんな大橋氏の迷いを打ち消し、魂に再び火をつけたのが大学アメフトの試合だった。

「9月に早稲田大学へ進学していた先輩に誘われて試合を見に行きました。そこで、高校アメフトとは違うフットボールの激しさを目の当たりにしました。何より“音”が違いました。“あ、これは大学に入らないと体験できない世界なんだな”と衝撃を受けました。そこから大学でアメフトをしたいという一心で受験勉強に打ち込みました。今思えば高校の時と同様、受験を舐めてますよね(笑)。」

大橋氏大学時プレー写真
大学時代、早稲田大学でプレーする大橋氏。背番号は高校と同じ65番。

無事に早稲田大学への進学が決まり、入学前の3月から練習に参加。練習自体は西高の方が“断然辛かったと”感じたものの、コンタクトの難しさ、システム化されたスキーム、ウェイトトレーニングなど初めて感じた“フットボールらしい練習”にのめり込んでいく。しかしアメフトに夢中になるあまり、単位が足りずに卒業が危ぶまれる事態に。そんな大橋氏を社会人へと導いたのが、今も続くシーガルズとの縁だった。

「留年している間は、リクルートでアルバイトをして学費を稼ぎながら大学へ通っていました。それと同時にシーガルズにも入部して、大学とリクルートの両チームに籍を置きながら、試合にも出ている状態が続ました。
結局、次の年にまた留年が決まってしまったのですが、その時にリクルートの人事の方から、“大学を辞めて新卒扱いで入社してほしい”と声を掛けていただきました。色々考えた末、早稲田大学を退学してリクルートへ入社しすることにしました。」

「僕は選手としては1989年~96年のシーズンまで在籍しており、最後のシーズンでチームとして初の日本一を経験しました。
入部当初は2部チームで、弱小の時代が長かったんですよね。それが、次の年には1部リーグが拡張するということで入れ替え戦を経ずに、昇格することになりました。とはいえ、半ば運で昇格したようなものでしたから、そこから数年は最下位が続きました。
それでも、当時からリクルートって野心的な人が多い会社だったので、日本一を目標に掲げ続けていました。
その甲斐もあってか、95年のシーズンに初めて東日本チャンピオンになったのですが、決勝戦で西日本チャンピオンの松下電工にぼろ負けしてしまいました。
シーズンオフには糸が切れたように、主力選手をはじめ多くの選手が引退してしまいました。
でも僕はやり残した感じがあって残りました。気が付けば僕以外の同期は全員引退してました。それで96年のシーズンを迎えたら、なぜか優勝しちゃったんですよね(笑)。本当にアメフトというのは何が起こるかわからないですよね。」

「ライスボウルは京都大学と対戦しました。今思えば、悲願の日本一が目前にあったので、舞い上がっていたのでしょうね、ごっついオプションストップのアサイメントミスをしてしまいました(笑)。QBアサイメントだったのに、鬼のようにダイブに突っ込んでいました。今思えば結構致命的なミスでしたね(苦笑)。
先ほどはこの優勝を奇跡的に掴み取ったように申し上げましたが、96年シーズンは、若手がどんどん伸びてすごくいい選手が育っていたということが大きな要因だったと思います。ただ、僕自身が選手として日本一に立ち会えたのは、諦めが悪かったからだと思ってますけどね(笑)。」

2011年ライスボウル勝利時に選手に囲まれる大橋氏の写真
2011年、ヘッドコーチとしてオービックシーガルズのライスボウル優勝時の写真。中央が大橋氏。

96年シーズンの優勝を花道に選手からは引退。97年にディフェンスコーチ、2000年にはヘッドコーチへ就任。
リクルートシーガルズからオービックシーガルズへとなった2003年以降も、引き続きチームの指揮を執った。
2006年にはリクルートを退社し、プロフットボールコーチとしての道を歩む。その後のライスボウル4連覇は読者諸氏の記憶にも新しいだろう(※)

※ リクルート社のインタビュー記事「トップダウンからボトムアップへ 「選手が主役」でつかんだ史上初4連覇」が詳しい。

個の力を最大限に発揮させることが、
まさに自主自律である

輝かしいキャリアを歩んできたように見える大橋氏であるが、自身による評価は極めて冷静である。
そこには自己の根底を突き詰めたOWLSでの経験が活きているという。

「OWLSでの経験から、人間が“真の本気“を発揮する際の原動力には、必ずしも綺麗ごとだけではなく、自分の心の奥底にあるどす黒い衝動も含まれているということを学びました。人間、苦しい時にこそ自分の限界が見えてきます。その限界と向き合って自分の原動力を突き詰めたときに、本当の意味での自主性や自発性が生まれるのではないでしょうか。そのプロセスを経て、ようやく心の底からの本気が出せるのだと思っています。」

大橋氏2021年のフィールドでの写真
2021年シーズン、オービックシーガルズのヘッドコーチとしてチームを指揮する大橋氏。(写真内にはOWLS64期の庄島氏も写っている。)

「僕は決して器用な人間ではなかったです。これは高校、大学、社会人とプレーしていた時も共通しておもっていましたが、自分としてはずっとアベレージくらいの選手だと思っています。それこそ、今のXリーグの一部では、試合に出られないと思っています。」

「指導者としても、カリスマ的に“俺についてくれば勝たせてやる”というタイプではないと思っています。世の中で言われているリーダーシップをどのくらい持ち合わせているか自身では評価できないです。むしろ、チーム員一人ひとりが自覚的にチームを動かしていくためにどうすれば良いかを常に意識しています。
人が組織を動かしている以上、チーム員自身がエンジンにならない限りは上手くいかないと考えているからです。」

「僕はシーガルズの選手たちに、“No PAY, No Gain.”という言葉を伝えています。人間は、自身が時間や労力などを費やしてないものに対しては執着できないからこそ、勝利を手に入れたければ自分の中で費やすことのできるあらゆる対価を支払え、ということです。」

「どのような組織であっても、動かしているのは人であり、その人を動かしているモチベーションは、一人ひとり、似ているようで少しずつ違います。みんな口では“日本一になりたい”とか“自分がチームを勝たせたい”と言いますが、なぜそうしたいかまで掘り下げると誰一人として同じ理由ではないのです。だからこそ、僕はチーム全員と面談をして、それぞれのモチベーションの源泉を探りながら動機付けていくといった運営方針をとっています。これは先ほど申し上げたような、OWLSでの原体験が基になった哲学だと思います。」

最後にこれからのOWLSに期待することを伺った。

入澤先生と大橋夫妻の写真
知重夫人と入澤先生(大橋氏がOWLS現役時の西高アメフト部顧問)を囲む。(2014年)

「OWLSの良さや面白さは、都立高であるがゆえに、いろんなバックボーンを持つ人が集まることにある点に尽きます。これはきっと、昔も今もこれからも変わらないでしょう。そして、その個性をどのように結実させるかということが大事だとも思っています。
強豪校の中には、ベースとしてしっかりとしたコーチング体制があり、“この学校で日本一を目指したい”という人たちが多く入ってくるような学校もあります。
彼らがある種の正規軍であれば、OWLSは個性豊かなゲリラや野武士の集団と言えましょう。」

「しかし、それぞれが個性を発揮することと無秩序であることは全く異なります。
チームとして機能するためには、2つのジリツ(自律・自立)が大切です。全員がそれをできると、しっかりとした共通認識の下で、互いを認め合うことができます。そうすることで、チーム全体にある種の容認力・包容力が生まれ、個の力を最大限に発揮させることができます。
これをみんなが理解すれば、OWLSのようなチームでフットボールすることがものすごく面白く、自身の実りにもつながってきます。
そういうチームにしてほしいと思いますし、OWLSはそういうことができる環境で、できる人たちが集まっているチームだとも思います。
高校生にとってはものすごく難しいお題を言っていると思いますし、社会人の僕たちでもやりきれてないような話ですが、西高の後輩にはぜひともチャレンジしてほしいと思い、あえて厳しめの言葉を送ることでメッセージとさせていただきます。」

人生で大切にしている信念
~Pride of Ohashi編~

“幕天席地”

【意味】
小さなことにこだわらずに、大きな目標を決めて目指すこと。または、大きな心を持っていることのたとえ。「席」は座るための場所。むしろ。天を屋根の代わりにして、大地を座席の代わりにするという意味から。「天を幕とし地を席とす」とも読む。
【出典】
劉伶「酒徳頌」
【大橋氏コメント】
僕が今のような気持ちでチーム作っていこうと思った時に、一番ぴったり来たのが、この言葉でした。リーダーとなる僕が、色々と小さなことにこだわっていたら、“僕が作りたいチーム”になってしまいます。逆説的にはなりますが、僕自身がこだわりを持たないということにこだわっています。

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