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卒業生探訪 - 58期 富岡 義仁
「チームドクターの“仁義”
 ― 医の三刀流で貫く“矜持” ―」

2025年09月03日 OWLS卒業生探訪

連載企画
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.7 58期 富岡 義仁
チームドクターの“仁義”
― 医の三刀流で貫く“矜持” ―

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS卒業生探訪〜あの期、あの人〜”。第7回は、チームドクターを務める富岡義仁氏(58期)に話を伺った。日本人で初めて医師×アスレティックトレーナー×IOCドクターの3資格を保有し、東京オリンピックでは最年少で選手村ドクターも務めた。常にフィールドで選手に向き合い続ける富岡氏にとっての“矜持と覚悟”を紐解いていく。

内部進学を断ち
新たな“フィールド”へ

富岡氏写真
富岡 義仁(とみおか よしひと) 1987年6月5日生。都立西高OWLSでアメリカンフットボールを始める。ポジションはRB。西高卒業後はインディアナ州立大学にてアスレティックトレーナー資格(ATC・米国国家資格)を取得。 在学時には学生ATとしてアメフト等多岐にわたるスポーツをサポート。帰国後、富山大学医学部に編入。インディアナ州立大、富山大在学中も長期休みを利用し西高のATを継続。 医師免許取得後はチームドクターも兼務。IOC公認スポーツドクターの資格も取得し、東京オリンピックでは最年少で選手村ドクターも務めた。医師×ATC×IOCドクターの資格保持者は日本初。

幼稚園から中学生まではサッカーを続けていた富岡氏。後輩にレギュラーの座を奪われたことをきっかけに高校では新しいスポーツをしようと決意。私立中での内部進学ではなく、両親から勧められた西高を受検することに。

「幼稚園の頃から中学生まではずっとサッカーをしていました。しかし、中学3年生の時に後輩にレギュラーを奪われて、自分には才能がないと気付かされました。ただ、足の速さや体格には自信があったので、高校では新しいスポーツ、特にフィジカルで勝負できるものに挑戦しようと決めました。」

「一方で、高校への内部進学についても迷っていました。その時に両親から、“家の近くに楽しい学校があるよ”と勧められ、西高を知りました。実は、二人とも西高の卒業生だったのです。父からは“学年2位以上の成績を2回取ること”を受検の条件とされましたが、自分の成長のために、強い気持ちでクリアしました。」

無事に入学した富岡氏だったが、西高にアメフト部があることは知らなかった。『アイシールド21』を通じて惹かれた“フィジカルで勝負できる新しいスポーツ”の世界に飛び込んだのは、先輩の熱心な勧誘の賜物だった。しかし、“高校デビュー”への憧れとの葛藤もあった。

「西高にアメフト部があると知った時は“『アイシールド21』で読んだアメフトができる!”と興奮しました。ただ…楽器やバンドへの憧れも捨てきれず、“つるばみ(註:軽音楽系同好会)”と兼部しながらのスタートでした。勧誘してくれた先輩も“兼部でもいいからね”と言ってくれていましたが、1年生の秋には、OWLS一本に絞ることを決意しました。」

58期は前後の代よりも少なく、秋大会までプレーを続けたのは9名だった。それでも練習を積み重ねた。最後の大会は強豪校と互角に渡り合い都ベスト8。翌年関東大会に出場した59期の力も大きかったが、その分、突き上げも多かったと苦笑い交じりに語った。

OWLS選手時代の富岡氏
OWLS選手時代の富岡氏

「当時はまだ春引退の文化も残っていて、秋大会の頃にはマネージャーを含めて9名になっていました。59期は人数も多く、最後の夏にはよく突き上げられていましたね。」

「3年生の春大会では、初戦から佼成学園が相手でした。同点に持ち込んだものの、コイントスで負けてしまいました。悔しかったですが、大きな手ごたえを感じることもできました。」

「その後も練習を積み重ね、秋大会では海城、早稲田実業に勝利しました。関東大会出場を賭けた日大三高戦では大敗を喫し、ベスト8で引退しました。その分、翌年に59期が関東大会に出場した時はとても嬉しかったですね。」

原点は高1の夏
“8月6日”の悔しさと決断

時は遡り―高校1年生の夏。富岡氏の人生を大きく変える“事件”が起こった。

「高校1年生の夏、今でも忘れない8月6日の練習中です。前十字靭帯断裂の大怪我を負ってしまいました。当時、同期のなかではフィジカルチェックもトップで、チームからも期待されていたこともあったので、悔しさと申し訳なさでいっぱいでした。」

“手術で1年、保存療法で半年。”という選択肢を迫られた。手術を選択しなかったのは、“早く復帰したい”という思いからだった。

「早く復帰したかったので、手術はしませんでした。リハビリのおかげで2年生の春大会に間に合いましたが、大事な場面で思うようにプレーができずに敗れ、苦い復帰戦となりました。」

この経験を“原点”として、“スポーツと医療に携わる職業”を志すようになった。その時に先輩から教わった“アスレティックトレーナー”という職業。その資格が持つ“もどかしさ”を乗り越えるために、西高卒業後の単身渡米を決意した。

アメリカ留学時代の富岡氏
アメリカ留学時代の富岡氏

「当時は、今ほどスポーツ医学が普及しておらず、身近に相談できる医師がいませんでした。その分、リハビリでお世話になった理学療法士の先輩方に相談し、アスレティックトレーナーという職業を知りました。」

「よりスポーツに特化でき、現場に寄り添える点はピッタリでしたが、日本ではあくまで認定資格であって、医療行為を認められていないことに、もどかしさを覚えました。」

「一方で、アメリカではアスレティックトレーナーが医療行為も可能な国家資格として認められています。それであれば、米国で資格を取るほうが理想に近づけると判断し、留学を決意しました。」

西高卒業後、インディアナ州立大学へ留学。学びに集中する強い意志を込め、あえて“観光地”から離れた大学を選んだ。しかし、異国での勉学は、精神的にも肉体的にも富岡氏を追い込んだ。

「大学3年生の時に、英語が話せなくなるスランプに陥りました。選手と治療方針などを話す際に、同じトレーナーでも、ネイティブスピーカーの学生との語学力の差から、選手の信頼感を得られなかったことが原因でした。」

「日々の生活も、早朝4時半からの朝練、授業、夕方の練習。帰宅後も課題に取り組む毎日でした。家のドアを開けた直後に寝てしまい、心配した隣人に通報されたこともありましたね。それでも一時帰国時に同期と会ったり、西高のグラウンドに行ったりすることで、自分の“原点”を思い出し、乗り越えることができました。」

“医の求道者”として
医学部編入を決意

インディアナ州立大学卒業後は、NFLのトレーナーを目指し、100通の書類を送るも断念。先輩から“いつか日本で働くなら、日本の医師免許を取った方がいい”とのアドバイスを受け、帰国を決意。富山大学医学部へ編入した。

「当初はNFLのトレーナーを目指していましたが、100通以上の応募書類を送っても叶いませんでした。そのままアメリカでの大学院進学も考えましたが、先輩に相談した結果、日本での医師免許取得を目指すことに決めました。」

「日本では医師に対する“絶対的な信頼感”があります。自らが医師としてスポーツ現場に寄り添うとともに、アスレティックトレーナーという職業を普及させることにチャレンジしようと決意しました。」

職場での富岡氏
職場での富岡氏

「正直、医師になることに迷いもありました。自分が怪我をした時に、医師を“遠い存在”と感じたためです。しかし、それは“スタンス”の問題だと気づきました。自分自身がグラウンドで選手一人一人に向き合う。選手が置かれた状況に寄り添って二人三脚でやっていく。これらを現場スタッフと連携しながらやればいいだけの話だったんですよね。」

富山大在学中は、夜行バスで西高へ通う傍ら、富山大アメフト部でもトレーナー兼オフェンスコーディネーターとして活動。当時の最高戦績へと導いた。この時の感動から、OWLSでもオフェンスコーディネーターをやってみたい、という密かな野望も打ち明けてくれた。

なお、富岡氏に憧れてスポーツドクターを志し、現在医学部で学んでいる卒業生もいるとのこと。実現の日は近いのかもしれない。

“覚悟”が道を拓き
“責任”が信頼を生む

富岡氏がOWLSのチームドクターに就いて約10年。現在、常任のチームドクターがサポートする高校は都内でも数校だといわれる。“仕事であればもう高級車が買えますね”と笑いながらも、ボランティアでOWLSに寄り添い続けるモチベーションはどこにあるのか。

「OWLSでチームドクターをしているのは、ここが私の“原点”であり、“死ぬまでにOWLSの日本一を見届けたい”という想いからです。」

「私の“原点”とは、先ほどお話しした“高1の8月6日”です。あの時、私は手術を選択しませんでした。結果として、復帰は早まりましたが、未だに古傷が痛むこともあります。正しい判断だったかは今でも答えを出せません。」

「この経験から、もし現役の選手が怪我をしてしまった場合は、本人とご家族が最も納得する決断ができるよう、色々な可能性と選択肢を提示し、会話することを心がけています。」

自身の怪我を“原点”として、選手や保護者に誠実に向き合うチームドクターとしての想いをさらに深く語ってもらった。

チームドクターとしての富岡氏
OWLSチームドクター時の富岡氏の様子

「チームドクターは“医師として責任を取る”存在です。選手にとって酷なことを言わなければならない時に、“富岡先生の言うことならば”と選手自身や親御さんに信頼してもらえるよう、常にフィールドに立ち、選手に向き合い続けることを自分に課しています。」

東京オリンピックの選手村ドクターに志願したのも、このような覚悟の発露だった。当時、IOCドクターの資格を持つ日本人は約20名。取得には多額の費用と深い知識が求められるからだ。それでも、自身が“信頼に足る医師”になるために突き進んだ。

「選手村のドクターに志願した動機も、やはりOWLSへの還元でした。オリンピックの舞台で経験を積んだ実績が、少しでも選手や親御さんに安心感と信頼感を与えることにつながればいいなと思っています。」

安全対策として、新入生の保護者向け勉強会を定期的に開催。また、試合中に負傷した選手の保護者には、試合後すぐに所見を伝えるなど、丁寧なコミュニケーションをとっている。富岡氏の“責任と覚悟”を象徴する2つのエピソードを紹介したい。

※参考:OWLS安全への取り組み

「1つ目はまだ研修医だった頃です。エース級の選手が肉離れを繰り返すようになってしまいました。私自身、最大限努力はしたのですが、知識や技術が追い付かず、“今だったらもっといろんなやり方があったのになあ”と悔しく、苦い思い出です。」

「2つ目はその翌年のことです。公式戦直前に、キャプテンの選手が脳震盪と思われる状態になりました。脳震盪には“明確な判断基準”がないのですが、診断された場合は1週間は復帰できません。最後の公式戦出場を自分が止めてしまう重圧は大きく、正直、“脳震盪と診断しない”ことも考えましたが、医師として選手の今後の人生を最優先しました。後日、本人から“あの時、試合に出なくてよかった”と言ってもらえたことで、肩の荷がおりました。」

※参考:日本アメリカンフットボール協会医・科学委員会『安全対策ハンドブック第2版』(2024年改訂)

「おそらく、日頃の関係値がなければもっと悩まず決断できました。しかし、結果が同じであっても、“どこまで選手に向き合い、責任を取るか”という覚悟こそが大切だと気づかされました。今でも、そしてこれからも、この気持ちは忘れずにいたいです。」

日頃はスポーツ施設内にある整形外科で勤務する富岡氏。老若男女問わず一人一人に向き合い、症状だけでなく、各々が抱える背景にまで寄り添った診療を心がけているという。

※医療に関する記述は個人の経験談であり、一般的な診断・治療を示すものではございません。

最後にこれからのOWLSへのメッセージを伺った。

「OWLSには、良い意味で“泥臭さ”が残っています。現に、2025年の春大会では、強豪校に挑み続けて関東大会ベスト8になりました。練習時間や設備など限られた条件で勝ち筋を探り、効率を意識しながらも限界に挑み続ける経験は必ず将来の糧になります。」

「私の“原点”は全てOWLSで培ったものだと確信しています。だからこそ卒業後20年近くたった今でも関わり続けています。西高に入学した際は、ぜひOWLSの練習にも顔を出して、その魅力に触れてください。」

人生で大切にしている信念
~Pride of Tomioka編~

“「覚悟」とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く事だッ!”

【出典】
荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第5部』(9巻「ホワイト・アルバム⑥」、集英社) ジョルノ・ジョバァーナのセリフより
【富岡氏コメント】
オリンピアンからセミプロ、そして子どもたちまで幅広い選手を診てきましたが、日本のスポーツ医療はまだ十分とは言えません。 指導者の意識は昔に比べ大きく変わり、選手に無理をさせることは減りましたが、いわゆる“スポ根”的な指導スタイルもまだまだ散見されます。学生スポーツを支えることこそが、日本全体の競技レベル底上げに直結すると改めて痛感しています。 素晴らしいスポーツドクターは数多くいらっしゃるものの、日常診療はもちろん、現場での医療サポート体制もまだ発展途上にあります。日本人で唯一、3つの資格を有する立場として、アスレティックトレーナーの普及と現場医療の充実に向け、前人未踏の道を切り開く覚悟です。

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