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卒業生探訪 - 46期 廣瀬 利明
「アメフトから教わった“経営哲学”
― エースに頼らない組織とは? ―」

2026年04月20日 OWLS卒業生探訪

連載企画
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.10 46期 廣瀬 利明
アメフトから教わった“経営哲学”
― エースに頼らない組織とは? ―

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”第10回は、島村楽器株式会社代表取締役社長の廣瀬 利明氏(46期)に話を伺った。長年経営者として活躍される廣瀬氏の哲学とその根底にあるOWLSでの経験を紐解いていく。

※本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。

合理的に、泥臭く。

廣瀬氏写真
廣瀬 利明(ひろせ としあき) 1975年7月生まれ。現役時代はOL(G/T)。慶應義塾大学卒業後、日本輸出入銀行(現在の国際協力銀行)に入行。主にアジア中東向けのプロジェクトファイナンス業務に5年間従事した後に、妻の父親が創業した島村楽器株式会社に2004年に入社。Kellogg School of Management(アメリカ合衆国イリノイ州)でのMBA取得などを経て、2013年より島村楽器の社長を務める。

廣瀬氏の小学生時代は、親の転勤に合わせて全国各地で過ごしていたが、スポーツだけは続けていたという。中学生となり東京へ戻ってきた彼の運命を変えたのは、本屋でたまたま手に取った1冊の雑誌であった。

「私はもともとスポーツが好きで、小学生の時は少年野球と陸上をやっていました。陸上は中学でも続けていたのですが、地区大会では入賞できても都や県大会では入賞できず、フィジカルの限界を感じていました。東京には中学入学時に戻ってきました。当時はまだ都立高校に学区制があり、私は西高まで自転車で10分ぐらいのところに住んでいたので、自然と西高を志望するようになりました。」

「中学3年生の時、本屋でたまたま手に取った『Touchdown』でOWLSが前年の都大会で優勝したことを知りました。都立高校でも都大会で優勝できる可能性があるスポーツであることに強い衝撃を受け、西高に入学できたらアメフトをやろうと決めました。」

無事、西高に入学した廣瀬氏は迷うことなくOWLSへ入部。当時は東京都でアメフト部のある高校が40校、全国でも120校の時代。今と変わらず、高校では珍しいスポーツをやっていたことは、後々、人生に大きな財産となった。

「高校に入学した時は177cmで70kgくらいでした。同期も似たような体格が多く、180cmを超える人はいなかったですね。クォーターバックができるフィジカルは無いと思っていましたが、フルバックやタイトエンドといった、ボールに触れるポジションをやってみたいと思っていました。しかし、言われたポジションはオフェンスラインでした。以来、ガードやタックルとして目の前の相手に1on1で負けないように必死でプレーしました。」

「結局、試合でボールに触れたのは相手のパントリターンのファンブルをリカバーした1回だけでした。そのため、今もアメフトのことをよくご存知でない方と話すときには、“球技なんですけど、試合中にボールを触ると反則になるポジションでした”という説明をよくしています。」

高校時選手写真
練習試合での様子(70番が廣瀬氏)

チームは“全国大会に出るのが当たり前”という強い使命感をもって練習に臨んでいた。時には激しいメニューに取り組むこともあったが、システムや水分補給など、合理的な練習に驚いたという。当初は30名近くいた同期も、最終的にはマネージャーを入れて20名になったが、当時の絆は今もなお生きている。

「3年生が引退して、新チームになったタイミングで、朝練と昼練を行うようになりました。旧校舎の非常階段の4階までをダッシュで何十往復するハードなメニューもありましたが、そのおかげで、けが人の影響で急遽ディフェンスラインとの両面で練習試合に出場した時も全然疲れなかったことを覚えています。ただ、次第にけが人が更に増えてしまい、少なくとも朝練は中止になったような記憶があります。」

「また、当時も西高会館で合宿をしていましたが、“メシ練”というのがあって、身体を大きくするために、とにかく先輩にご飯を食べさせられました。巨大なふりかけの容器がなぜ食堂に幾つも用意されていたのか、よくわかりました。食後はみんなで自転車こいで銭湯まで行ったのですが、よくあれでお腹を壊さなかったなと思います。3年生の時には校舎建て替えが始まったので、西高会館ではなく北軽井沢のペンションで合宿をしたのですが、ご飯の量に限界があるとのことで“メシ練”は中止になりました。」

「一方で、当時からプレーブックが整っていて、同じスポーツでもこんなに様々な戦術があることに、いい意味で衝撃を受けました。また、運動部だけでなく世の中全般に熱中症対策への意識があまり無い時代でしたが、OWLSでは練習の間にきちんと休憩を設け、こまめに水分補給するようにするなど、当時としては先進的で合理的な取り組みも多くありました。」

高校2年時に国際ジャーナリスト落合信彦氏の本に感銘を受け、1年間のアメリカ留学を決意。この時の経験は、のちの人生を方向づける貴重な経験だった。

「実は、高校2年の夏から1年間アメリカに留学していたので、西高には2年間しか通ってないんです。私の学年以前から年に1人か2人は留学している人はいましたが、私の時は一定の条件を満たすと留学先の単位を認めてくれる制度ができたので、留年せずに卒業することができました。」

「アメリカでもアメフトをやりたいと思ってコーチに会いに行きました。“日本ではオフェンスラインをやっていた”と伝えたところ、私を一瞥してから“うん。わかった。まあ、とりあえず練習に行こうか”と言われ、そのままついていきました。」

「チームには100名近くの選手がいたのですが、とにかく体格が良く、私は体重が下から3番目くらいでした。アメリカの高校だとラインは最低でも体重が200ポンド(約90kg)は必要でしたね。練習や試合は一軍と二軍は完全に別で、二軍の数試合にスペシャルプレーチームで出るのが精一杯でした。」

高校3年の6月に帰国しチームへ復帰。秋大会では関東最強との呼び声高い中央大学附属高校と互角に戦うも惜敗。今でも“一番悔しい思い出”のひとつだという。

高校時試合写真
高校三年時の秋季大会、中大附属戦終了後。(左から三人目が廣瀬氏)

「当時の中附は“関東最強”と言われており、私もレギュラーで出場していた2年生の春大会では都大会準決勝で負けて、その後の関東大会でも負けた因縁の相手でした。3年の秋の都大会でも対戦したのですが、残り2分までは8対6でリードしていました。“これでようやく勝てる”と思ったのですが、残り2分にロングパスを通されて逆転されてしまいました。その瞬間はまさに“夢、散る。”という感じで、非常に悔しかったです。その後、中附はクリスマスボウルに出場したのですが、その時には東京ドームまで同期で応援に行きましたね。」

無知だからこそ、丁寧に、謙虚に。

西高卒業後は慶應義塾大学に進学。アメフトは続けず、再度の留学を目指して語学研鑽に取り組んだ。卒業後は“グローバルな仕事に取り組みたい”と日本輸出入銀行(現在の国際協力銀行)に入行。アジア・中東におけるプロジェクトファイナンス及び船舶金融業務を担当した。

「大学でも留学したいと思って入ったESSという英語の部活にかなりどっぷり浸かっていました。私の体格では大学でラインは難しいだろうし、もう夏休みに練習したくないのでアメフト部には入らなかったのですが、ESSではなぜか夏休みもほぼ毎日練習があったので“こんなはずじゃなかったのにな…”と思っていました(笑)。」

「大学4年時に休学して1年留学し、卒業後は今の国際協力銀行に入行しました。日本企業の海外でのプロジェクトにお金を融資することを目的とした政府系金融機関なので、必然的に融資先のプロジェクトはすべて海外での事業になります。私は発電所や船舶に融資するプロジェクトファイナンス業務に携わり5年間働いたのですが、中東など海外出張も多かったです。プロジェクトファイナンスは検討開始から融資実行までの期間が数年単位に及ぶのが通例なので、2~3年で異動する当時の行内の人事制度では、案件を検討している途中で異動してしまうのが普通です。私は運がいいことに1年半ぐらいで完結したあるプロジェクトを最初から最後まで担当することができました。中東で行われた大臣や大使も出席する調印式にも立ち会うことができ、非常にやりがいがありました。」

国際協力銀行時写真
国際協力銀行時代、担当していた融資案件の調印式(オマーンの首都マスカットにて)

経営者を目指してMBA取得の準備を進めていたところ、予期せぬタイミングで義父からの“会社を継いでくれないか”とのひとこと。悩みながらも島村楽器へ入社。ある意味では楽器の素人であったことが、謙虚で丁寧な経営に活きたと振り返る。

「実は、銀行員時代から将来経営者になりたいと思っていて、MBA留学のための準備を進めていたところ、義父から“うちで経営者をやればいいじゃないか”と誘われました。」

「妻の父親が島村楽器の創業者で社長であることはもちろん知っていましたが、私はもともと楽器演奏と縁がない人生を送っていて、継ぐことをまったく考えていなかったので戸惑いました。しかし、冷静に考えると金融の世界で経営者になろうと思ったら、どれだけ努力しても優秀な同僚との競争に勝ち抜き50代後半に経営者になれるかなれないかという厳しい世界です。一方で、島村楽器は当時すでに日本で一番大きな楽器店でしたし、海外の会社とも取引がありましたので、今までの経験やこれから学ぶことを活かすためには、義父の誘いを受けた方が自分の人生にとってもプラスになるのではないかと思い、銀行を退職して島村楽器に入社することにしました。ただ、すでにMBA出願準備も佳境に入っていたので、2年間のMBA留学だけはさせてほしいとお願いをしました。」

「入社した頃は、まったく楽器に触れたこともない素人状態でした。とはいえ、世界の様々な有名楽器工場に行ける立場なのに、楽器をやらないのもよくないと思い、留学から帰国後に最初はギター教室に3年ぐらい通いました。しかし、家であまり練習せずに当然上達はせず、3年で辞めてしまいました。その数年後、ジャズを聞くのが好きでしたのでサックスを始めたら相性が良かったようで、10年以上経った今でも続けています。」

近況写真
ステージでサックスを演奏する廣瀬氏。

「今思えば、楽器や小売業のことを何も知らないのが良かったのかもしれないですね。もし、下手に小売業界のことを少し知っていたり、楽器の経験があったりしていたら、生半可な知識で色々と口を出してしまったかもしれないです。本当に何も知らなかったからこそ、謙虚に“ちょっと教えてください”というスタンスで、社員と接することができたのだと思います。」

「入社以来、丁寧にコミュニケーションをとるということをずっと心がけてます。私が入社したのはまだ20代後半でしたから、周りの幹部社員は自分より20歳近く年上でしたので年上の社員には当たり前の接し方ですが、私は入社当初から自分より若い新入社員にも丁寧語で接していました。社長、部長や店長というのは、あくまで役割の違いであって、社長だから偉い、ということではないということは強く戒めています。今では新入社員が自分の子どもに近い年齢になりましたが、男性・女性関係なく“さん付け”で呼びますし、丁寧語をベースに話すようにするのは20年前と同じです。」

「入社してから22年、社長になってから13年経った今、従業員はアルバイトを含めて2,400人になりました。小売業はお客様に喜んでいただいている実感がダイレクトに得られるという意味では、非常に充実した仕事だと思っています。」

必要なのは、“エース”よりも“総合力”。

OWLSでアメフトをしていた経験は、廣瀬氏の経営哲学に大きな影響を与えるだけではなく、人の縁ももたらしてくれた。

「アメフトでは、グラウンドでしっかり練習することも大事ですが、対戦相手の分析や、チームの力をどうやって引き出すかといったグラウンド外での取り組みも非常に大事です。」

「特に我々のような都立高校は、フィジカルや個の力だけでは私立の強豪校になかなか勝てないのは今も昔も共通していると思います。その力の差を練習だけではなく、緻密な戦略を練り上げることで覆せるというのは、私も現役時代に信じていましたし、直近のOWLSを見てもお分かりかと思います。」

「企業経営においても、エース社員だけで売上や競争力が決まるわけではないと強く感じています。高校野球は大谷翔平のようにエースで4番がチームに一人いたら、他の選手があまり上手くなくても1対0で勝てる可能性が残っています。対してアメフトは、QBかRBだけが凄くても、WRやOLがしっかり機能しないと勝つことはできません。同じチームスポーツであっても、アメフトは特にチームの総合力が試されるスポーツだと思います。」

「当社の店舗運営でも、ひとりのエース社員に頼りすぎている店舗にはどこか危うさがあり、お店全体がお客様に評価されるようにならないと、ある時点で店舗運営レベルが下がっていることが表面化するといったことを目にしてきました。総合力という意味では、アメフトと通じるものがあるなと感じています。」

「また、経営と直接的に関わる話ではないですが、アメフトをやっていたことで、思わぬところで会話のきっかけになったことも多くあります。」

「会社の顧問税理士の方と話していたら、なんと息子さんが西高でアメフトをやっていたことが分かりました。私の現役時代の話をしたら“廣瀬さんの時代にはそんなに選手がいたんですね”と驚かれていました。」

「銀行の支店長や出店している商業施設の不動産会社の役員の方がご挨拶にいらっしゃったときに、“もともとは楽器はやっておらず、高校時代はアメフトをやってました”といった話をすると、“私の高校にもアメフト部がありました”という話から、その方が西高の卒業生だとわかったことが数回ありました。また、大学でアメフト部だったという取引先銀行の支店長や担当者にも何度も遭遇しています。高校でアメフト部があるという珍しさもあるのかもしれませんが、不思議な縁を感じています。」

「同期とは仲良く、現役当時は練習が終われば近くのセブンイレブンで食べ物や飲み物を買って、他愛もない話をしながら家に帰ってました。卒業後も忘年会などをしていましたが、最近は年に1回、1泊2日の温泉旅行をしています。昨年の旅行時は、父母の方が撮ってくれていた試合のビデオを見られるようにしてくれた同期がいて、当時の試合のビデオをつまみに、“あの時のあのプレーがどうだった”とか、“お前あの時手を抜いてただろう”といったことで盛り上がりながら部屋で飲んでいました。」

最後にこれからのOWLSへのメッセージを伺った。

「頑張れば本当に全国大会に手が届く部活というのは、西高だけでなく、都立高校全体の中でも非常に珍しい存在だと思っています。個々の力だけではなく、緻密な分析やチーム全体で戦略を立てることで、私立の強豪校にも立ち向かっていく姿は、他のチームスポーツと比べても非常に突出していますし、そこがアメフトの魅力だと強く感じています。」

「私の場合、通常より1年短い2年間しかプレーしませんでしたが、本当に何事にも代えがたい経験でした。今でも、会えばくだらない話を同期とずっとできるのは、OWLSで汗と泥と涙にまみれたからじゃないかなと思います。先ほど、会社のスタッフには常に丁寧語で話すと言いましたが、私が唯一“お前”と相手のことを呼んで話すのはOWLSの同期だけかもしれません。このような経験や仲間ができるという意味でも、本当におすすめできるチームです。」

人生で大切にしている信念
~Pride of Hirose

“論理的に考え尽くして、それでも決めきれないことを直感で決めるのが経営者である。”

【廣瀬氏のコメント】
出典は明確ではないのですが、社長になってから読んだ経営関連の本に、名経営者といわれる人はそれを自然にやっていると書かれており、意識するようになりました。経営者は常に論理的に考え抜く必要があるが、論理的に考えても答えが明確に出ない場合もある。そうした場合にむやみに部下に更に精緻な分析を要求して時間を浪費するのではなく、不完全な情報下で意思決定を下すのが経営者の仕事であり、そうした状況下の意思決定ではそれまでの経験値を総動員して直感で決めるのだ、という趣旨です。なお、これは考え抜こうとせずに最初から直感で決めることを諫める趣旨でもあります。実際には、各セクションの責任者がしっかりした分析に基づく案をあげてくることがほとんどで、そのまま論理や数字で判断しています。上げてきたデータや論理構成はいいのですが直感的に“本当にこの前提条件でいいのかな”と感じた時、関係するマネージャーの意見が大きく食い違った時、前提の裏付けにこれ以上情報収集できなそう、といった直感で決めるシチュエーションは、1割ぐらいですかね。

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