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卒業生探訪 - 10期 傳田 晴久, 坂井 淳
「廃部避けるつもりで走り回った“泥沼”
2人で一人前、人生に悔いなし」

2026年02月15日 OWLS卒業生探訪

連載企画
「OWLS 卒業生探訪 ~あの期、あの人~」
Vol.8 10期 傳田 晴久, 坂井 淳
廃部避けるつもりで走り回った“泥沼”
2人で一人前、人生に悔いなし

各界で活躍されるOWLS卒業生を紹介する連載企画“OWLS 卒業生探訪~あの期、あの人~”の第8回は、コーチ、審判、OB会運営に長年携わってこられた傳田 晴久氏(10期)と坂井 淳氏(10期)にご登場いただく。
「この方々はなぜいつも西高グラウンドにいらっしゃるのだろうか」多くのOB、OGがそう感じていたに違いないだろう。毎週日曜日、シーズンになると必ず2人はほとんど無報酬で審判をしていたのだ。 この2人がいなければ、間違いなく、西高アメリカンフットボール部、そして日本の高校フットボール界は、今のようにはなっていなかっただろう。 必死でフィールドを駆け回った2人を突き動かしたものは何だったのか。「泥沼」と笑いながら振り返る、そのアメフト人生に迫る。

※本企画では、チーム名が“OWLS”と定められる前の時代も含めて“OWLS”と表記します。

全ては部員1名となった、
11期の救済策から始まった

両氏写真
傳田 晴久(でんだ はるひさ、写真右) 1940年1月16日生。 1955年都立西高入学。小・中学校時代虚弱児扱いされた反動か、同級生中村健一郎氏と「激しいことをやろうよ」とタッチフットボール部に入部。 1959年東京都立大学入学。1960年西高タッチフットボール部コーチを始める。その頃OB会設立に参画。 1962年FOA(関東アメリカンフットボール審判協会)に所属。同年東京都高体連タッチフットボール部の事務局を都立戸山高校から西高に移転。また、高校審判部(FOAH)を創設した。 1963年(社)日本能率協会入職〜2000年定年退職。 2006年まで審判活動を続けたが、台湾での新生活開始を機にフットボールは見る側に変わった。
坂井 淳(さかい すなお、写真左) 1938年生。 1955年都立西高入学。体操部がなく、うろうろしていた中でタッチフットボール部に拉致される。笹田英次氏(4期、日大初優勝時の主将)のレクを受け、アメフトにのめり込む。以降、浪人・大学中、傳田氏とワンセットで、西高コーチ、審判員、先生のお手伝い等アメフトの泥沼で生きる。 1964年水産庁へ就職。転勤のある中でも審判員を続ける。 1989年第1回クリスマスボウルでレフェリーを務めるなど、高校フットボール界の中心で審判として活躍。 2023年、85歳で公式審判員を引退したが、現在もボランティアとして活動中。

傳田:私たちは10期生ですが、飯塚康史さん(6期)や小田哲也さん(8期)とOB会を作ろうという話になり、新宿の高野フルーツパーラーに集まりました。初代会長は植木郁也さん(2期)だったと思います。 創部後10年ほど経ち、11期生が大量に退部してしまい、部員が1名だけになってしまったこともあって体制を作ろうということになりました。11期生は最初10人くらいいましたが、ほとんど辞めてしまい、斉藤信一君だけが残ってくれたのです。彼に部費でスパイクを買ってあげたこともありましたね。彼、足が大きかったなぁ(笑)。

坂井:そうですね。1972年くらいまでは、OBが審判もコーチも兼任していました。各校の顧問の先生も審判をされていましたね。OB会設立後、徐々に審判協会組織の体制ができてきて、笹田英次さん(4期)が中心人物になっていきました。私は浪人、大学生の間はコーチ、就職してからは審判のために、週末はすべて予定を空けていました。審判の人手不足が深刻で、なかなか抜けられなかったのです。

10期の写真
OWLS 10期と11期

西高を関東高校アメフトの事務局に

昔の先生達
安藤覚先生(左から2番目)と入澤敏夫先生(一番右)

傳田:西高にタッチフットボールを導入された平山清太郎先生が亡くなられた後、安藤覚先生(以下、安覚先生)と入澤敏夫先生が西高に着任されました。お二人ともアメフトに詳しくなかったので、少し心配でした。特に、安覚先生は前任校でラグビー部の顧問をされていたという噂があり、もしかしたら西高にラグビー部を作ってしまうのではないか、と不安に思っていました。 そこで、田所司さん(4期)と相談し、安覚先生をアメフトに引き込もうという話になりました。その中心人物は、自然と坂井さんになりました。 同時に、タッチフットボールの高体連事務局を戸山高校から西高に移そうという計画も持ち上がり、思い切って「西高に事務局をやらせてください」と戸山高校の井原先生に申し出たのです。すると、「ご随意に!」との返事で、高体連事務局は西高に移ることになりました。

入澤先生写真
青鬼と恐れられた入澤先生

坂井:安覚先生は、OBが事務局もサポートしてくれるなら、と承諾してくれました。入澤先生は体操の先生で、アメフトには全く興味がありませんでした。しかし、安覚先生に命令されて、アメフト部の顧問も高体連事務局も引き受けてくれたのです。 私は傳田さんとは違って、先生の方のお手伝いをするようになりました。安覚先生は大酒飲みだったので、よくお伴しました。入澤先生の家にも招かれて、飲んだり麻雀をしたりしました。

傳田:入澤先生は、本当にフットボールによく付き合ってくれました。事務局が西高に移ったことで、西高の校長は自動的に東京都、関東の会長になるため、入澤先生は西高に赴任されていた30年間、歴代の校長先生にフットボールの重要性を説いてくださいました。

審判部を支えたのも西高OB

傳田:審判部ができたのは、かなり大きな出来事だったと思います。笹田さんが大学生の審判組織「FOA」を、私たちが東京都の高校生の審判組織「FOAH」を設立しました。FOAとFOAHの間には、実は大きな確執がありました。

表彰式での写真
入澤先生は全国大会のトロフィー授与役もつとめられた

坂井:記録によれば、私はFOAに入ったのが1958年です。卒業後、コーチをしながら審判もしていました。当時は大学の試合でも審判が足りなかったので、笹田さんから「手伝ってくれ」と頼まれ、大学の試合も手伝うようになりました。 FOAのメンバーは、大学でフットボールをした人が多かったのです。それで、高校でタッチフットボールをやり大学生で審判をしている人たちを見下す傾向がありました。今はもうそんなことはありません。例えば、七久保裕哲さん(35期)は大学でアメフトをしていないけれども、審判協会で欠かせない存在になっています。

傳田:自分たちのグループができたことは、本当に嬉しかったですね。入澤先生は、審判の活動費をきちんと確保してくれました。おかげで、審判員の交通費を支払うことができるようになりました。やはり、お金が支払われれば、審判も安心して活動できます。入澤先生は、そのような体制を全国に広めてくれました。

坂井:入澤先生がある程度の規模のファンドを作ってくれたおかげで、今の東京都高校アメフトの運営がうまくいっているのだと思います。

入澤先生なくして
高校アメフトの発展はなかった

入澤先生写真
入澤先生

坂井:東京には、関西のような商売上手な人はいませんでしたからね。入澤先生は、ほぼお一人でご苦労されて、関東の高校アメフトのネットワークを構築されました。 それから、黒澤尚さん(14期)を口説いて、ゲームドクター制度を作ったのも、入澤先生の功績です。これは、当時、関西でもやっていなかった画期的な取り組みでした。公式戦には、必ず医師が帯同してくれるようになり、選手やご家族はもとより、顧問の先生、そして私たち審判も、安心して試合に臨めるようになりました。入澤先生は安全対策にも熱心で、シーズン中に1回は、医師から怪我の予防や応急処置について学ぶ機会を設けてくれました。

傳田:最初は、試合がある時だけOBを集めて、即席の審判団を編成していました。そこから徐々にFOAHが形作られていきました。 安全管理もしっかり行わなければなりませんでした。私が作った簡単なアンケート用紙ですが、怪我人が出た場合、体のどの部分を痛めたのかを具体的に記入してもらいました。そうして集まったデータを分析することで、怪我の傾向を把握することができました。その後、黒澤さんがチームドクターとして参加してくれ、医療面をサポートしてくれる体制が整いました。審判の立場から、安全対策の必要性を訴えたことも、今の体制につながっていると思います。 初期の審判は、ほぼ全員が西高OBでした。他校出身者は本当に2、3人くらいしかいませんでした。つまり、審判の礎を築いたのは西高OBなのです。

入澤先生を囲む会の写真
入澤先生は2020年1月3日にアメリカンフットボール殿堂入りを果たす

68年間無欠勤!
泥沼だったけど素晴らしかった

審判のようす
審判を務める坂井氏

—— 坂井さんの引退試合が2024年春に行われたそうですね。

坂井:そうなんです。審判を引退すると言ったら、竹内英章さん(22期)がオープン戦で「お疲れ様試合」を企画してくれました。白い帽子をかぶって、前半だけ審判をさせてもらいました。あとは、観客席から試合を見て、終了後は現役父母会から記念品までいただき、本当に感謝しています。

—— 68年間も審判を続けられたとのことですが、振り返っていかがですか?

坂井:実は4年間、岩手県庁に出向していたことがありました。盛岡に住んでいたのですが、その間も審判登録は続けていました。東京に出張する際は、実家に審判道具を置いていたので、土日に東京で試合があれば審判をさせてもらっていました。ですから、68年間、1年たりとも審判を休んだことはありません。途中、心筋梗塞で倒れたこともありましたが、その年も審判を続けました。 健康に恵まれ、家族や職場の理解にも恵まれたおかげで、本当に楽しいフットボール人生を送ることができました。審判を通して後輩たちと交流したり、若い人たちとフットボールの話をしたりするのは、本当に楽しい時間でした。

審判のようす
現役審判時代の傳田氏

傳田:最初にお話ししたように、11期の部員が斉藤信一君一人になり部が存続の危機を迎えたことで、私たちは否応なしにフットボールという「泥沼」に深く関わっていくことになりました。しかし、そのおかげで七久保さんのような素晴らしい多くの後輩を育てることができ、フットボールからも、後輩たちからも、多くのことを学ぶことができました。幸せな人生だと思います。

坂井:入澤先生には、公私ともに大変お世話になりました。先生がいなければ、今の私たちはありません。本当に感謝しています。あとは後輩たちです。阪本紀康さん(12期)や小野恵稔さん(13期)のような後輩たちが、私と傳田さんの後を継いで、OWLSを支えてくれたのは、本当にありがたいことです。フットボールを通して様々な人と繋がり、色々な経験をしてきました。こうした繋がりがあったからこそ、フットボール人生を楽しく過ごすことができたのだと思います。

アメフトから学んだ自己犠牲の精神

坂井:フットボールは、100人規模の大人数でプレーするスポーツですが、どんな選手にも役割があります。ですから、私も多くの部下を持つようになった時、それぞれの良いところを見つけて、活かすようにしました。「こいつは使えない」と決めつけるのではなく、必ず役に立つ場所があると考えて起用したのです。 これは、アメリカンフットボールの精神です。フットボールのおかげで、私は多様な人材を活かす視点を持つことができるようになりました。どんな人でも、必ず役に立つ才能を持っていて、それぞれの能力を活かしてチームに貢献できるのです。 本当に、私の人生はアメリカンフットボールそのものでした。役所の仕事をしていても、「坂井さんはアメフトの審判をしている」ということは、広く知られていました。そのため、周りの人たちは私を尊敬してくれ、とても得をした気分です(笑)。

傳田: アメフトの自己犠牲の精神は、今でも私の心に残っています。私たちが自己犠牲の精神を実践できたかというと、自信はありません。しかし、アメフトを通して多くのことを学べたのは事実です。

坂井:私たちの場合は、自分の意思というよりも、「もし自分が抜けたら、大変なことになってしまう」という責任感から、アメフトに関わり続けてきました。傳田さんと二人で一人前、そんな気持ちでしたね。

傳田:2006年に私が台湾に行くことになった時、竹内さん(22期)が快く引き受けてくれたので、私はFOAHの責任者を退くことができました。坂井さんは今も「泥沼」から抜け出せていませんが(笑)、私はこうして抜け出すことができたのです。

儚い夢だが、かなってほしい!
全国優勝するまでは死ねない

—— お二人の存在があったからこそ、今のOWLSがあるのだと、改めて実感しました。最後に、OBや現役の選手たちにメッセージをお願いします。

審判のようす
審判時代の坂井氏

坂井:やっぱり、OWLSがクリスマスボウルに出場できるようになってほしいですね。それを見てから死にたいものです(笑)。まあ、そうなるまでは、まだまだ生きなければいけませんが。 いい選手をたくさん集めなければいけませんね。体が大きくて、能力の高い選手が欲しい。 あとは、人工芝ですよね。西高のアメフトグラウンドは縦が120ヤードあり、歴代校長の努力で何回も整備をしてきました。しかし、雨になると泥沼になり、乾燥すると砂塵が舞う問題は解決していません。選手の健康にも悪いし、OB会も協力するので、都立高のモデルケースとして、何とか人工芝にしたいものですね。

審判のようす
審判時代の傳田氏

傳田:勝つことも、負けることも、すべて教育です。大切なのは、そこから何を得るかです。名誉や勝利だけがすべてではありません。 でも、後輩たちには、叶うかどうかわからない夢であっても、諦めずに全国優勝の夢を追いかけてほしいですね。 40年前、関西学院高校が200連勝以上を記録していました。それを、市立西宮高校が破ったのです。市立西宮高校は、西高と同じ公立高校です。関学を公立高校が破ったのですから、OWLSが佼成学園を倒すのも、決して不可能ではないと思いますよ。

人生で大切にしている信念
~Pride of Denda編~

“アメフトは学生のスポーツであり、精神と肉体を鍛え、人間形成に資するところ大である”

【出典】
傳田晴久
【傳田氏のコメント】
私は小・中学生時代を虚弱児として過ごしましたが、西高でフットボールに出会い、その面白さを知りました。大したプレーヤーであるはずもないが、それなりに心身を鍛え、その後の人生を送ることができました。一番の財産は「不撓不屈」の精神です。小さな体で、大型の選手の足元に頭から突っ込んで打ち倒し、ボールキャリアのための道を切り開く。今では反則ですが、当時はそれが普通でした。仕事のうえでも、私事でも大きな困難に出くわした時、それに怯むことなく、突っ込んでいく勇気、取り組む精神を身に着けられたように思います。 他のスポーツも同様と思いますが、人間が持つ弱い心を鍛え、強くしてくれるのがスポーツです。

人生で大切にしている信念
~Pride of Sakai編~

“自己犠牲精神で泥船に乗ってみると結果として素晴らしい人生が切り開かれる”

【出典】
坂井淳
【坂井氏のコメント】
西高フットボール部を廃部させてはいけないと必死に68年間走ってきた。それを「泥船」と揶揄しているものの、そのおかげで多くの人に会うこともできたし、楽しい経験をたくさんさせてもらうことができた。フットボールの仲間は、家族を含めて、みな兄弟親戚のように付き合ってくれる。そうこの泥沼は、「温かい」泥沼だったのだ。
西高時代の写真
(左から)松倉OB会長、坂井氏、傳田氏

編集後記:10期には座間味朝雄さんというNHKの沖縄放送局長まで務めた逸材もいらっしゃった。松倉会長や私がコーチを務めた42期が都大会で優勝したときに、傳田さんと坂井さんが座間味さんに働きかけ、NHKが取材して朝のニュースで放送してくれた。その放送を見たのが入部のきっかけだったと語るのが、第3回の卒業生探訪で登場した45期の日置貴之さんである。その後、NHKに入局した私とNHKエンタープライズに入社した42期の谷宮崇文さんを座間味さんは本当によくかわいがってくれた。振り返ってみると、全て「有由有縁(人と人、人とものごととの出会いに偶然はない。すべて理由があって縁を結んでいる)」であるという川端康成の言葉を思い出すのである。(38期・小笹俊一)

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